ふじさんの小部屋

きまぐれにショートストーリーを載せます

ゆっくりと流れる通勤電車の車窓から外をぼんやりと眺めていると、梅の花が咲いているのが目に入った。

「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」

梅の花を見ると、この和歌を思い出す。

この和歌の事を知ったのは、高校の古典の授業だったと思うのだが、東の風と書いて「こち」と読むのが珍しくて印象に残っていた。

歌の意味は、「東の風が吹いたら香りを届けてくれよ、梅の花。主人がいないからといって、春を忘れるんじゃないぞ」とかそういうのだったと思う。

正直、歌に大して思い入れがあるわけじゃない。

 

「こちさん」と出会ったのは、その少し後の事だった。

大学受験に向けて家庭教師を雇う事になり、やってきたのが彼女だった。

親同士が知り合いだということだったが、まさか女性が来るとは思ってなかったので少々面食らったのを覚えている。

当時大学生で、3つ年上だった彼女は、僕の部屋から見える梅の樹を見つけて、「わたし、梅の花が好きなんだ。花言葉が気品でね、わたしも気品がある女性になりたいって思っているの。友達からは絶対無理だって言われるんだけどね」という自己紹介をしてくれた。

その後で、あの和歌が好きだという話になった。

彼女は、「その場にいなくても、何かのきっかけで思い出してもらえるような人間になりたいなあ」と笑いながら言っていた。

その時から、僕は彼女を「こちさん」と呼ぶようになり、こちさんも「いいね、それ。ニックネームつけられた事ないから、嬉しい」と、それを喜んでくれた。

 

無事、大学に合格し、こちさんが僕の家庭教師を辞めてから、僕たちは手紙のやり取りをするようになった。

メールやSNSでやり取りをしてもよかったのだが、こちさんは「直筆の手紙の方が暖かみがあっていいでしょ?」と自分の住所が書いてあるメモを手渡してきた。

最初、手紙なんて書き慣れてなかったから、どう書いていいか悩んでたら、こちさんの方から先に手紙を送ってくれた。

そこには「広哉くん、手紙慣れてないだろうと思って、お姉さんが先に送ってあげます」と書かれていた。

それから、何往復も手紙のやり取りをした。毎年、春になると決まって「今年も頑張ってね」と一言添えた梅の花の絵葉書を送ってくれるのが恒例だった。

こちさん曰く、僕たちの出会いは春だったから、一年の始まりは春ということになるらしい。

年賀状も送りあってるのだけれど、とは言わなかった。

言えば、その絵葉書が届かなくなるかもしれない。

こちさんとのやり取りが減るのは嫌だったから。

 

そして、昨日、今年もこちさんから梅の花の絵葉書が届いた。

そこには、いつもと違う文章が書かれていた。

 

「結婚しました。広哉くんも祝福してくれるかな」

 

胸の奥がチクリと痛んだのを感じた。

こちさんは意地悪な人だ。きっと、僕の好意にも気付いてたのだろう。

僕にとってこちさんは憧れの女性で、恋愛対象とはちょっと違うのかもしれない。

そう言い訳して、一歩踏み込まなかった自分を後悔した。

有り体かもしれないが、今の関係を壊すのが怖かったのだ。

 

ああ、僕はこちさんの事が大好きだったんだな。

こちさんの笑顔が頭に浮かぶ。

こちさん

僕はこれからも梅の花を見たら、きっと貴女の事を思い出しますよ。

 

窓の外には、美しく咲く梅の花

返事を、書かなきゃ。

僕のありったけのおめでとうを伝えよう。

今度の休み、梅の花の便箋を探しに行こうと決めた。